幼いマッサージ屋さん
幼い頃から、大好きなおじいちゃんの肩叩きと肩揉みをよくしていました。
小学校に入っても友達の肩なんかをよく揉んでいました。何もわかっていないのに、「ここが悪いねぇ」なんて偉そうに言いながらやっていました。
家族旅行に行くと、父がよく按摩さんを部屋に呼んで、やってもらっているのを見ていました。
それを、真似していたのだと思います。
手で触るだけで人のことがわかり、人を元気にできるなんて、不思議に思いつつも、カッコイイなぁって憧れました。
スポーツ少年
外でばっかり遊んでいる活発な子でした。
幼稚園一足も速く、運動やスポーツが得意でした。その頃から野球が好きで、ボールとバットがあれば独りでも遊んでいました。
小4から少年野球に入るも、足首の捻挫を繰り返すようになっていました。
中学生になると、オスグッドシュラッター病(成長期の子供がなることが多い)という膝の骨の変形と膝痛になりました。
運動や野球だけが取り柄だった私は、その頃から周りの子達の方が俊足になっていくことが、悔しくてたまりませんでした。
痛いところもあり、身体が成長しているのに思うように動けない、野球や運動のパフォーマンスも伸ないことが、悩みでした。
それでも、なんとか小中高で中心選手としてもプレーして、高校3年生で引退するまで野球を続けました。
足首の捻挫も膝の疾患も右脚でした。
今思えば、正しい身体の使い方(歩き方や走り方)や身体のバランスを良くすることを知っていたら、怪我や痛みをかばいながら、運動・スポーツを続ける必要もなく、野球のパフォーマンスももっと伸びていたかもしれません。
そういったことに精通する指導者が周りにいなかった私は、トレーニング方法、身体のケアやリハビリを学ぶことに興味を持たずにはいられませんでした。
図書館と本屋で情報収集し、アメリカで「アスレチックトレーニング」というものが学べると知りました。
野球少年の私にとって、本場アメリカは憧れの地でした。
どうしても、アメリカでトレーナーの勉強がしたい、と無理を聞いてもらいました。
アメリカ留学
ところがトレーナー見学に通ってみると、トレーナーは来る日も来る日も、テーピングと超音波治療と患部のマッサージばかり。
トレーナーのことを足蹴にするような選手もいました。
車の壊れたとこだけの応急処置をする整備士のように見えました。
自分が思い描いていたトレーナー像とのギャップに、がっかりして、トレーナー志望をあっさり辞めてしまいました。
でも無理言って、アメリカに来させてもらった両親への後ろめたさもあり、大学を辞めて日本に帰ることは、恥ずかしくてできませんでした。
自分の胸の内を誰にも相談できない孤独感、自分がどうしたいのか、またどうしたらいいのか分からない焦燥感、自分はこの先どうなってだろうという不安感は、忘れられません。
こういった心境は、身体の辛さや悩みを抱えている人達のものとも通じていると思います。
このままだとどうなってしまうのか、どうしたらいいのか、何かやりたいけど何をしたらいいのか、ほんとうに良くなれるのか、といったものと。
しばらくして、運動機能の障害のある子供や大人のリハビリ運動を、手伝うボランティアがあることを知り、参加してみました。
「これだ!」と思いました。
色んな身体の状態の人がいることに驚きました。
もっと広く深く身体のことを、人のことを学びたいと奮い立ちました。
「理学療法士」という仕事があると知って、目標が定まりました。
アメリカの理学療法の学校(大学院)に入るのは、医学校や法学校に入るのに並ぶくらい難関で、成績優秀でないと合格できないと聞いて、あわてました。
英語もろくにできないのにアメリカの大学にいるのですから。
トレーナー志望の日本人はいましたが、アメリカ中でも理学療法士を目指している日本人は、当時はいなかったと思います。
同じ境遇の人がおらず、理解者はいません。
どうやって勉強したらいいのか暗中模索の中、なんとか大学で良い成績を修められるようになり、大学院(理学療法の学校)にも入学できました。
そして、アメリカで理学療法士にもなれました。
何度も挫折しそうになりながらも、やり抜いたおかげで、なんとかものになることを知りました。
この体験は私の一番の財産になっています。
治療家の”勘違い”
理学療法士になってからは、幼少期の憧れを思い出したかのように、手技療法(施術法)にのめり込みました。
自分の施術で、人が元気になっていったり、辛い状態から解放されていったりするのを経験することは楽しかったです。
その一方で、いっぱい役に立てなかった経験もありましたが、知識と技術の未熟さのせいだと思っていました。
ところが、本当の未熟さは私自身の心にありました。
表向き人助けしているようですが、「俺は凄いだろ」ということを見せつけたいあまりに、この仕事に携わっていることに気がつきました。
その場で痛みを取って、楽にして見せることで、患者さんを「アッ」と驚かせ、自分が良い気分に浸ろうとしていたのです。
ですから、「まだ痛い」「1週間は調子よかったけど、また最近痛くなってきた」「腰はよくなったけど、今度は首が調子悪い」などという言葉が返ってくると、すごく腹が立ったり、「自分は役立たずなんだ」と思って虚しくなったりしていました。
鬱のように無気力になることも度々ありました。こんな心の状態ですから、新しい知識や技術を学んでも、全部無意味に感じていました。
自分中心で、相手の立場を考えられない幼さのため、手技(施術)で“治すこと”に拘り、本気で人と関わってきていませんでした。
当然、「相手が何を求め、そこに自分は何ができ、何をしてあげられるのか」なんて分かっていませんでした。
施術(治療)から指導へ
幸い日本に帰国してから、武道や日本の整体に通い、「相手に注意を向ける」「相手を感じる」「相手を知る」という精神性も稽古していたために、心のベクトルの間違いに気がつけるようになってきました。
それとともに、施すことよりも、導くことの方が、人の人生にプラスになる、ということにも意識が向き始めました。
50歳代の女性に、肩甲骨の使い方をちょっとアドバイスしたことがありました。
施術中のことで、こちらがアドバイスしたことも忘れていました。
しかし、その方はアドバイスを取り入れ、日常に活かしていました。約一月後にお見えになった時、アドバイスのおかげで肩こりに悩まされることが減ったり、痛くなりかけた時にやると楽になったり、コントロールできるようになったと言うのです。
また、テニスの打球が強くなった(とコーチに褒められた)と喜びの報告を受けました。
施術で「楽になった」「痛みがなくなった」と言ってもらった時と違い、ジーンッと染み渡ってくるような嬉しさが込みあがってきました。
その方の人生に貢献できたと思えたのです。
こういう関わり方が求められ、私自身が求めているものだと感じました。
そんな私が出会った一つのメソッドが、ゆるかかと歩き(ネイティブウォーキング)です。
開発者の中島先生が、「歩き方」で外反母趾をはじめとする足の疾患や様々な症状を改善されていることに、興味を持ちました。
豊富な改善実績もさることながら、私にとって衝撃的だったのが、「外反母趾は生活習慣病」と位置付けていることでした。
生活習慣病と言えば、食生活や運動習慣、喫煙などの害的な嗜好と関係する高血圧や痛風など、成人病と言われるものとしか結び付いていませんでした。
悪い姿勢や身体の使い方の間違いが、身体の痛みや症状につながると考えていましたが、それを「生活習慣病」という言葉で表現することはありませんでした。
しかし、確かに歩き方などの日常動作も生活習慣です。
人それぞれの癖があります。外反母趾は歩き方の間違いが原因であるから、それも生活習慣病である、と言われてみれば、その通りでしかありません。
そして、生活習慣病は、生活習慣の改善でしか治癒させることはできないことは、納得済です。それには、治療ではなく、指導が必要不可欠なのだということも。
その方向性は私の想いにピッタリだと感動し、自らゆるかかと歩きとその指導方法を習得しました。
歩行は日常動作の中心なので、思っているより多くの不調や疾患と関係しています。
そして、人生を大きく左右します。
病院勤務などで、歩けなくなった多くの方をみてきましたが、そうなってしまうと、人生は激変し、健康も日に日に退廃してしまいます。
ですから、私とって、正しい歩き方の指導を取り入れることを、外すことはできません。
歩き方の指導を通して、皆さんが症状の改善を皮切りに、健康の自己管理ができ、自分自身で人生を充実させていくことへ、お手伝いをさせていただけることが、私にとって幸せになっています。